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平田 弘史 1999.4月記 はじめに おいおい……ロクに作品発表しとらん平田弘史のフアンクラブなど作ってど〜すンだよオ……、おらあ不安だよオ……。と、言うのが平田弘史の本音であります。クラブ作ったから、さ〜あ、やるぞ〜お!…なんてエ気なぞ…おらあ起らないべヨ……。今まで通り、気運、天運、経済逼迫、緊急依頼でも無い限り、作品製作地獄界に……好んで入界する気は起きて来ない。
メカ大好き人間天理教信仰者の布教師である父母、教会長の伯父、教祖と祀り上げられた「中山みき」の曾孫、梶本宗太郎が、平田弘史が生まれる前から名付けた「弘」という名。時代劇を描く事から歴史の「史」を追加したのは平田弘史自身だが、この「弘」の一字を取って、生業の傍ら父母が営む布教所の名称は「鍛冶弘布教所」となっていた。この布教所は、やがて平田弘史が継いで「鍛冶弘分教会」としてレベルアップしてゆく筈だったが、平田弘史39歳の時、信仰は「一名一人」「教団無用」「信仰とは己自身を信仰する事」「己自身を震い立たせる事」などなど、電子回路にはまり込んでいた時期、オシロスコープに映る様々な「波形」からも実感され、中山みきの言葉から自分なりの言葉が生まれ、確信を持って、教団から離れた。 ともあれ、中学生前期より父の営む「ポンプ水道業」に午後から学校を抜けて従事し、17歳で父を失い6人兄弟の長として、母を助け、2月、8月の仕事の少ない時期には、得意先を回り、どんな仕事でも引き受けて鍋、釜、ヤカンの修理や、雨樋、屋根の修理、風呂釜製作、浴槽の製作、果ては大工そこのけの商店の事務所造りまでした事もある。どこかの大工現場を覗きに行っては参考にしたりした。 その合間にはトタン板を加工して「三菱の3輪バタ公」(これは3輪トラックの事)の1/6モデルを造ったりした。車輪3個は、木材に穴を開け、手回しグラインダーに取り付けて回転させ、木工鑿で任意の形に削り上げてゆくのだ。前輪部には勿論、コイルスプリング入りのアームであり、リアーの2輪はリーフスプリングをトタン板を何枚も重ねて造り、シャックルを介して取り付けた。この3輪バタ公を業者が欲しがったが、ついに売らなかった。最後は雨曝しになって、どうなったか忘れた。 模型エンジンを造った事もある。燃料のエーテルが入手し難いので、ガソリンを使ったが、パシュ! パシュ! と白煙を上げるだけで、ついに回転するまでには至らなかった。指はマメだらけになっていたもんだ。あれは苦労して造ったのになあ …。その頃から工作機械の旋盤などを、強く欲しいと願う様になった。 映写機を作りたいと思っていたのは、小学生の前期からだった。マシンの間をすり抜けてゆくフイルムが音と映像を、あの大きな布地のスクリーンに再現するカラクリは、絶大な興味であり、何としても、自作したいと思ったものである。関係書を探しては学び、設計図は部分的なものも含めると3000枚以上は描いている。映写機を作りたいと思う意志は、必然的に機械やメカに対する関心を高め、光学や音響、また電子回路世界に突入せざるを得なくなる。小学生低学年から抱いたその意志は、その頃出始めていた「鉱石ラジオ」の制作から始まっていた。 「ゲルマニュウム」と呼ばれる「鉱石」は「交流を直流に制御する検波、整流子」で、空中に飛来している放送電波(交流波)を捕捉するためにスパイラルと呼ばれた捲き枠にコイルを捲き、ところどころコイルを捩ってタップを作っては周波数選択位置として作り、そこで選択した周波数を「ゲルマニュウム」で整流してから音声信号だけを取り出して、クリスタル・イヤホーンで聞く、というシステムであった。 住んでいた奈良県の天理市で、貧弱な鉱石受信機で大阪の放送を受信するには、更にやらねばならぬ事があった。当時、疎開先の四軒長屋の一軒に暮らす平田家だったが、二階の大屋根に上り四軒長屋の屋根の端と端に竹竿を立て碍子を介して長いアンテナを張らねばならなかった。それでも、かすかに受信の音が鳴るだけで話しにならなかった。だからこそ、その後、真空管を用いた3球式ラジオや、4球、5球スーパーラジオを作ってゆく事になるのだった。その頃の誠文堂新光社の「初歩のラジオ」や各社が発行する電子技術雑誌は、私の大切な先生達であった。東京で暮らしていた時のラジオが、敗戦日後暫くしてから鳴らなくなり、何時の間にやら、我が家にはラジオがなくなっていたからこそ、作ろうと言う気になっていった訳だ。だから高価すぎる物や、自分の気に入る物がない時は、今でも作りたいという気になる。劇画作品も同様で、自分が作りたいと思わないと作れない。(これはチト、プロとは言えなくなるのだが…)
電子回路にはまる以上 |